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2020年9月19日土曜日

理想と現実の狭間を突き進む ー大原孫三郎について

 先日、倉敷に行ってきました。

倉敷にある大原美術館において城山三郎さんの作品が販売されていたので買いました。大原孫三郎を扱った「わしの眼は十年先が見える」です。
 大原孫三郎は、大地主であり倉敷紡績(クラボウ)の設立者である孝四郎の息子として生まれました。少年・青年期の孫三郎は「バカ息子」という言葉がぴったりです。勉学のため上京したものの、孫三郎は1万5千円(現在の金額で1億円)もの借金を抱えてしまい、倉敷に連れ戻されてしまいます。後年、孫三郎は社会事業にお金を大量に注ぎ込みますが、お金の使い方が大胆なのは若い頃からのようです。孫三郎は父の跡を引き継ぐと、経営者としての手腕を発揮します。倉敷紡績を発展させるだけでなく、倉敷絹織(クラレ)や中国水力電気会社(現在の中国電力)を設立します。また、小さな銀行を合併させて中国合同銀行(現在の中国銀行)を作り、その頭取となります。まさに岡山・倉敷の経済界の中心人物だったと言えるでしょう。しかし、孫三郎は経営者としてよりも、社会や文化への貢献が有名です。倉敷紡績の女工の待遇の大幅な改善。孤児院を設立し、孤児や貧困にあえぐ子供を救おうと奮闘する石井十次への莫大な資金の支援。農業研究所・社会問題研究所・労働科学研究所の3つの科学研究所の設立。倉敷紡績の社員だけでなく、一般市民も利用可能な病院の設立、そして大原美術館の開館など、孫三郎の社会貢献は列挙するとキリがありません。孫三郎は、経営者としての会社の利益という「現実」とよりよい社会にするという「理想」、この狭間を突き進んでいった人間といえるでしょう。
 なぜ孫三郎は経営者として利益を追求するだけでなく、社会貢献にも力を注いだのでしょうか。筆者である城山さんはその理由を彼の少年・青年期に求めています。少年時代の孫三郎は大地主の息子ということで嫉妬や羨望の対象でした。当時は今よりもより身分による区別が色濃く残っていたというのもあるでしょう。孫三郎には心からの友人が少なかったようです。また、東京遊学中にあれほどおごってあげた友人たちは孫三郎が倉敷に戻るとパタリと音信が途絶えたのでした。このような経験から彼は「本当の友人」や「仲間」を切望していました。そのため、女工さんや小作人と「資本家」と「労働者」して付き合うのではなく、対等な仲間でありたいと考えていたと思います。また。石井十次や画家の児島虎次郎といった孫三郎が理想に共感した人物には協力を惜しみませんでした。作中では、主人公の孫三郎と理想に燃える石井や児島、そしてもう一人、おそらく作者の創作であると思われる砂田の存在が興味深いです。砂田は孫三郎と同じ資産家の息子であり、早く跡継ぎを作り自身は一日でも早く楽隠居になることを目指している人間として登場します。石井や児島と砂田。これらの人物との対比によって、孫三郎がもがき揺れ動きながらも、その間を懸命に進んでいく姿がはっきり浮かび上がってきます。このあたりの人物の描き方はさすがだなと思います。ぜひ読んでみてはいかがでしょうか。
 大原孫三郎について、興味を持ったのでもう一冊読みました。それが、兼田麗子著「「大原孫三郎ー善意と戦略の経営者」です。彼女はこの作品以外にも複数の大原孫三郎についての作品を書いており、まさに大原孫三郎の専門家と言えるでしょう。同時代の代表的な資本家である渋沢栄一と武藤山治との比較はとても興味深いです。こちらの本もおすすめです。



2020年9月17日木曜日

「沈黙」の創作秘話

 遠藤周作さんの作品のなかで最も有名と思われる名作「沈黙」。この沈黙の創作秘話や文学と宗教の関係についての講演録をまとめたのが「人生の踏み絵」です。一番面白かったのは,「沈黙」の創作秘話について語られている「人生にも踏絵があるのだから ー『沈黙』が出来るまで」です。以下の文章が印象に残りました。

戦後の人たちも今の人たちもでも,やっぱり多かれ少なかれ,人生の踏絵というものを持って生きてきたはずです.われわれ人間は自分の踏絵を踏んでいかないと生きていけない場合があるんです. 

 今の日本人は理想や憧れの生き方を政治や社会情勢のために押し殺して生きていかないといけない、ということは殆ど無いでしょう。ただ、現代日本人も「自分の踏絵」を持って生きているというのは賛同できるのではないでしょうか。
 ここで「踏絵」というのは、ただの「挫折」とは異なります。「踏絵」を踏まないとキリシタンと認定され、踏まなかった本人だけではなく家族まで罰せられる可能性があります。少なくとも周りの非キリシタンから家族は白い目で見られるでしょう。「踏絵」を踏まずに信念を貫くという行為は、他人を傷つける恐れがあるのです。「踏絵」を踏んでしまう人は弱い人間かもしれませんが、同時に周囲を傷つけたくない人ということができます。おそらく私は目の前に踏絵を差し出されたら踏んでしまう弱い、平凡な人間でしょう。「沈黙」はそんな弱い私のような人間にフォーカスして描かれた小説なのだ、と思うと「沈黙」をもう一度読み返したくなりました。
 また、主に西洋のキリスト教文学について語った「文学と宗教の谷間から」もとてもおもしろかったです。特にモーリアック「テレーズ・デスケルウ」についての文章がとても印象に残っています。遠藤さんは、この小説のおもしろさを人間の混沌とした心理を描いたことであり、ある行動をした心理を一つの心理で片付けていないことだとしています。そして、遠藤さんは小説「海と毒薬」はこの作品の影響を受けたものだと語っています。確かに読み返してみると、作品の冒頭で戦後の勝呂が独り言のようにつぶやいた言葉などには「テレーズ・デスケルウ」の影響を感じることができます。
 この本を読むことによって、「沈黙」などの名作をより理解できるとともに、小説の裏にある遠藤さんの人生観や人間観が少しわかる気がしてとてもおもしろかったです。遠藤作品をよりおいしく味わうためのスパイスのような存在でありながら、ひとつの料理としても十分に味わえる、そんな一冊です。

2020年8月12日水曜日

経済と人間の関係について

 最近読んだジョージ・ソロスの本が面白かったので紹介したいと思います.10年ほど前に発表された「ソロスは警告する」という本です.

ジョージ・ソロス,「ソロスは警告する 超バブル崩壊=悪夢のシナリオ」,講談社,2008年

 ソロスの主張は,「市場のさまざまな変数(価格など)は均衡値に向かって収斂する傾向がある」という現在主流の経済学(新古典派経済学)の考え方は偽りであるということです.これは現在主流の経済学では人間は常に合理的な判断をする(ホモ・エコノミクス)と仮定されていますが,実際は必ずしもそうではないからです.ソロスは,人間はホモ・エコノミクスであるという仮定では排除されている,人間の未来への期待やに基づく現実との誤差(バイアス)や現実の理解不足を考慮すべきと主張します.ソロスが投資家としてこれほどの成功を収めたのは,難解な金融工学を駆使したからではありません.彼が「人間理解の名人」だったからです.金融市場の動きを見て,他の投資家がどう動くかを把握する達人です.そして,現実と一般の投資家の現実理解との誤差が大きくなったところで自らの信念に従って投資を行い,市場を出し抜き巨万の富を得ました.
   さて,市場価格などは均衡値に向かって収束するという考え方に対して,経済学者の立場から批判している方がいます.私の一番好きな作家である城山三郎さんの恩師である,山田雄三教授です.

城山三郎,「花失せては面白からず 山田教授の生き方・考え方」,角川文庫,1999年
 山田教授は作中で経済的自由主義を批判するとともに,自由と個人利害とを結びつけて現実に調和する自由を主張しています.人間はホモ・エコノミクスとして完全に合理的に行動するわけではない.人間の様々な価値観や意見を考慮すべきである,と. 
 ジョージ・ソロス,山田雄三教授はともに現実をありのままに直視することの重要性を説いています.そのためには深い人間理解が必要でしょう.山田教授が私家版として「謡曲に見る人間研究」という本を出されていることはその証左でしょう.また,近年では行動経済学や実験経済学といった人間はホモ・エコノミクスではないとする経済学も徐々に発展しているようです.これらの新しい経済学を勉強してみたいと思います.そして,人間についてもっと深く理解できたらいいなと思います.

丹沢山を登る

 先日神奈川県にある丹沢山に登りました.丹沢山地は東京からのアクセスがよいのが魅力的ですね.今回はオーソドックスに大倉から塔ノ岳を経由するルートを選びました.大倉までは 小田急電鉄小田原線の 渋沢駅からバスで15分程度です.小田急電鉄に乗っていると動きやすい服装で大きめのリュック...