2020年9月14日月曜日

名和長年公の戦没遺跡

 京都市内を当てもなくぶらぶらしていると、なにやら大きいモニュメントが。近づいてみると、名和長年公の戦没遺跡でした。名和長年は南北朝時代の武将です。「名和長年」という名前を久しぶりに見ました。そしてたちまち小学校時代にタイムスリップして懐かしい気持ちになりました。
 私は小学生のとき歴史に強い興味を持ちました。荒俣宏さんの「21世紀こども人物館」を隅から隅まで読みました。今でもこの本は家にあるのですが、手垢で真っ黒です。歴史のなかでも男の子らしく(?)戦いのある時代が好きでした。一番好きなのが戦国時代で、その次に好きだったのが名和長年が活躍した鎌倉時代末期から室町幕府成立までの時代でした。この時代に興味を持ったきっかけが「太平記」です。ただし「太平記」といっても、小学生でもわかるように平易な文章に書き直したものだったと思います。名和長年は隠岐から脱出した後醍醐天皇と合流し、鎌倉幕府を滅ぼす原動力となりました。その後、後醍醐天皇の政治(建武の新政)では役人を務め、足利尊氏が後醍醐天皇のもとを離れると楠木正成や新田義貞と協力して尊氏と戦いますが、1336年にこの地で討ち死にしたようです。
 「平家物語」では平氏は政権奪取後おごりたかぶっていた存在として描かれているので、源氏にやられてもしょうがないかなと思っていました。しかし、「太平記」において後醍醐天皇とその周りの公家はともかく、名和長年ら政権側の武将たちは隆盛を誇るような記述はなく役人として忠実に働いていたイメージです(小学生の頃の記憶なので間違っているかもしれません)。尊氏の勢力が徐々に強大になっていくのを感じて南朝方の武将を応援しながら「太平記」を読んでいましたが、私の応援むなしく名和長年や新田義貞、楠木正成は敗戦し死んでいくことになります。それらの場面では子供ながら非常にもの悲しい気持ちになったことを記念碑を見てしみじみと思い出しました。
 「太平記」、もう一度読んでみようかな。


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